2009年9月17日木曜日
Tokyo Art School
東京に足りないものを考え、変えていくために、さまざまな
角度から東京を見つめなおすレクチャー・シリーズ。
8月23日にあった1回目の「東京の解像度」にいってきた。
写真家の畠山直哉さんと、社会学者の毛利嘉孝さんのレクチャーだ。
会場は代官山のヒルサイドテラス。
「東京に無いものを考える。そしてこの先10年、何をするか」
参加者それぞれが、このレクチャーシリーズを通して、
歴史的、地理的、空間的に東京をマッピングしていく。
何があるだろう?
そして、何が出来るだろうという仮説を自らが立てていくことが
レクチャーシリーズの目的だと森さんから説明があった。
まずは畠山さんの話。
見慣れたものも写真にすることで、「異化」「距離化」されて
新しい気づきがある。
例えば、自分の部屋を写真に撮ってみると「俺の部屋って
こんなに汚いの?」と驚くように。
東北から出てきた畠山青年には、東京は密集していて、
ぎゅうぎゅうに物が詰まった、写真が撮り難い場所と感じられた。
その彼がモチーフにしたのは東京タワー。
高層ビルは嫌いだけど、高いところに上って自分の街を見下ろす感覚
に興味を持つ矛盾した気持ちもある。
活動を通して気づいた、東京のフィジカルな特徴は「常に工事中」。
「世界の醜い都市の中で最も美しいのが東京で、時間をかけて感覚を
チューニングしていけば、その良さが見えてくる。」という。
表現では工夫を積み重ねている。
ただシャッターを切るだけでは、街の変化が記録されてしまうので
渋谷川の水に映った街をさかさまにして表現してみたり。
渋谷川の暗渠に潜って写真を撮ってみたり。
それは近隣の人から罵倒されたりと、たった一人での苦労作業だけど、
「都心で自由を味わった」体験だという。
その作品を見て、畠山さんの支障が10数年ぶりに電話をかけてきて
暗渠の奥で勉強会を開くことの相談を受けたのは嬉しかったそうだ。
いまは山手通りの工事中の写真を撮り進めている。
その風景には、計画する人、工事する人、使う人・行き過ぎる人、
周りに住む人、それぞれのつながりが無いことが感じられる。
消費するだけでない、関わり方は何だろうか?
次は毛利さんの話。
ストリートはたまたま通った人が見る風景であり、
都市は「移動中の人」で成立している。(ホームではない、移動性)
以前の東京は、場所毎に違いがあった。
それが、だんだんと無機質な顔になり都心が似てきた(JUSCO化という)が、
これはマネーの力が大きい。
いま、見たくないものを見えなくする力が働いている。
街は誰のものなのか。
下北沢での市民運動を毛利さんは紹介した。駅前開発に反対するんだけど
一昔前の思想性のものとは違って、そこに住む人に加えて、外の人もやって
来て参加している。
こういうのは東京で今活発になっている。
例えば、路上解放戦線、246ギャラリー、246星とロケット、just doiteなど。
(スライドの写真)
文化、美術、音楽が90年代から変わった
続いて、二人のトークになった。
毛:写真の中に人が写っていない。
畠:人の写真を見るとぼくは悲しくなる。写真好きと言っても
撮るのが好きな人と、見るのが好きな人がいるように
人が写っている写真が好きな人と、好きでない人がいる。
それと写真に働く力学があって、同じ時間、空間を共有するのは
イヤなのが写真家。
そして映画の先祖を写真に求めるのは間違い。
毛:物を見たいように見ている。想像力を重ねてみている。
現代人は、目の前の世界が得体の知れないもの、それを
コントロールしながら懸命に生きている。
畠:想像化されたビジョンに近づけるテクニックが写真には必要。
アンダーグラウンド・渋谷川では、テクニックを使わなかったので、
汚く写らなかった。
毛:東京は大きいのに、その大きさを気にしないで生きている。
こんなに大きなエリアを一つの概念で捉えていることに
無理があるんだけど
東京を「東京」にしたいという圧力がある。
日本中を東京にしたいのだろうか?
都市の不安をなくしていこうとする動きと同じベクトルだ。
のぺーとした社会になったら、何を撮る?
畠:写真を撮る理由は驚き。
アートがすべからく社会参加するべきとは思っていない。
ぐずぐずもひっくるめて世の中を考えていかないと。
毛:今ある世界に慣れてしまうことへの拒否が心の中にある。
慣れ親しんでいくことの安心感と同時に、そっから出たい
という望み。旅、違う人間関係、写真、言葉などの道具を
使うこと、これは美学的な概念として近代に確立された
(もともと深いところにある欲求)。
アートの存在意義は?
畠:「世界をもう少し良くしたい」という気持ちを持っているアーティ
ストは多い。でも、全ての表現をそこに還元するのは良くない。
アートは物体ではなく、その実態は一つの精神活動だ。
毛:美術と呼ぶ代わりに「アート」を使っている頻度が高くなってきた。
美術概念の変化、アートは大きくなっている。
畠:明日は今よりも良くなればいいは、誰もが持つものだけど、それを
アートの目標にする必要は無い。
ぼく達を縛っているもの(モノの見方)からどうやって自由に
なっていくか、はアートの課題だ。
Q どこの価値基準を置くか。
毛:かつての哲学者に与えられていた役割を、今、アーティストが
担っている。
社会はそれをどう活かすべきか?
畠:80年代はモノがキーワードだった。そこで写真は物質と映像との
関係だから、それ以降の言論の対象になった。
いまアート以外の映像の人は、フィルムが無くなることに
誰も心配していない。
アートプロジェクトには矛盾、難しさがある
畠:ぼくはアートプロジェクトには合わない。自分でやるタイプ。
毛:イベントみたいになりすぎている。
畠:地域の作家とその場所でやることが大事じゃないのか。
今回のレクチャーでは、
写真家・畠山直哉の目に映った東京の姿を追体験し、
そして制作の姿勢を知った。
社会学者・毛利嘉孝による時代と文化的背景の解釈と、
何かが作られることは何かが壊されると同義で、このバランスを
どう考えるのか、そして「街は誰のものか」という指摘、
が興味深くて印象に残った。
次回は9月19日。「オルタナティブ・スペースの歴史」として
小池一子さんと白石正美さんのレクチャーになる。
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